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丸古一
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2008年07月05日

建設=普請

国はじめ、発注機関からの公共工事が叩かれ始めたのは、確か小泉内閣時代だったはず。
公共工事悪玉論といわれてから、これまで毎年、年間3%ずつ公共工事費が削減されてきている実態を把握した上で、公共工事を非難するならば、それなりの持論があってのことだろうが、そこを抜きにして、単に公共工事を非難するのは、ただマスコミに踊らされているだけでしかない。

いわゆる、「箱物」と呼ばれる建物を乱立させて、今、無駄、無駄、無駄…だと悲観視する人々は、これがマスコミの常套手段となりつつあるという見地から、見たことがあるだろうか。ここで、問題にすべきなのは、「箱物」を活かせなかった行政及び第三セクターに問題があるのは、火を見るより明らか。

3Kといわれ、働き手からただでさえ、敬遠されがちな土木工事の業者などは、こう呟く。

「身銭を削って、仕事をしている。今、公共工事に儲けはない。総合評価や入札制度改革などで疲弊しきっている。違う業種に仕事を転換させるように回りはいうけれど、そう簡単に他の仕事をこなせるはずがない。事実、これで長年メシを食ってきたんだ」と憤る声は、なかなか食卓に届かないだろう。

これまでの経験を活かして、新たな業種に取組む人々が、取り上げられがちだが、ならば、IT業界に名乗りを上げろというのか。逆にIT業界のノウハウしか持っていない人間が、建設業の業種に転換できるかどうか、と言えば、並大抵のことではないことは、容易に判断できる。そこを吸収合併の手段をいうならば、あまりに実情を理解していない、と言わざるを得ない。

某市長「建設は明治時代以降に作られた言葉で、普請(普き請け負う)仕事だ」という。彼の言葉に曇りはないはず。だが、彼において、選挙時に正直、少なからず相互関係みたいなものはあるだろう。利権(損得)で人は動く。この相互関係(ギブアンドテイクの発想)は、今の社会では切ってもきれない。むしろ、人間社会において、普遍的なものではないのだろうか。

高収入の仕事に憧れを持つのは、人の根幹(本音)の部分では否定できないはず。楽して生きたい、という欲求を否定する人は、誠に出来た人間だが、ここでは欲求のレベルで書き記していたい。

しかし、今、高収入の仕事、つまりおいしい仕事は、都会にある。都会のIT産業や大企業ががっちり掴み取っている。

例えば、日本国民、1億数千万人が視聴するであろうテレビ。ブラウン管の向こう側で働くキャスター。
彼らは様々な問題を警鐘を鳴らし続けるが、寄せ集められた情報を精査し、彼らの感覚で、彼らなりの思惑を載せて、報ずるだろう。この仕事には、もちろん、計り知れないぐらいの遣り甲斐があるだろうし、必要性もある。

そもそも、このテレビという媒体を得たマスコミは、今、国民を扇動する恰好の手段だと言われて久しいが、事実、テレビの影響力は自身も体感すべく、日々、まざまざと見せ付けられている。これを良しとして、テレビ各局が、これまた挙って国際的な潮流である「脱温暖化」を叫ぶ。この発想は、国際的な潮流から逸脱しないとするマスコミのエゴ、そして、利権を相反するものとして、捉えるマスコミの体質にある。

起因が、こういう多様化されたものが、本質の元凶であるとすれば、それを一まとめにして、論議するのにも、頭を使う。しかし、単純明快な説明が「正」とする社会の習性(日本人的か)が、打ち消してしまう。世界には、多様化された社会が存在し、多様化されるべきだとする流れもあるが、今、多様化を分別して、議論することにどれほどの価値があるのか。総合的な見地で議論するべきで、その総合的な視点を一国民に求めていく時代ではないのか。

2008年7月4日の報道ステーションで「里山」の特集を組んでいた。
就労者不足を嘆く現実は、目立たなかったが、林業であっても、エアコンの部屋で数字の勘定をする仕事と比べれば、間違いなく3Kである。この仕事をこなす人と、テレビの向こう側で働く人々の給与にどれ程の差があるのだろう。この収入の格差を入れ替えてしまうことが、安直な解決策だと思う。しかし、これは誠に安直な発想だろうが、就労者不足を解決しうる唯一の手段だと思う。「富」を求めて人は仕事をする。安楽の地を目指して仕事をするはずだ。その構図の制度設計を政府は、手を尽くして取組むべきで、温暖化のために、仕事をボランティアで賄っている場合ではない。それを仕事として、入職できる環境を作るべき。

自身も、マスコミではないが、報道する立場で仕事をする人間で、建設業をその1例として取材している。どれほどマスコミに叩かれて、疲弊しようが、この業種は不可欠だろう。それは、過去、培ってきた「歴史」という土壌があるわけで、「普請」とする日本の歴史が証明している。その歴史を蔑ろにして、ただ非難し続けることに、何の意味があるのか。確かに、田中角栄時代に様々な要因が重なり、過剰供給過多が生じて、約50万といわれる建設業者が全国に存在するので、間違いなく、そこの需給の按配を求めるのは、正しいし、そこは大賛成。

しかし、地方の建設業者でなくては分からない事情というものもあるらしい。例えば、昨今問題視される(その原因は温暖化とされている)の集中豪雨危険箇所がどれだけあり、どこの配管が危険で、どうすれば、安全管理が叶えられるのか、詳細まで理解しているのは、地元建設業者だけだそうだ。これは、行政が理解しているといえども、彼らには、毎年のように大規模な人事異動というものがあり、きっと昨年は分かっていても、10、20年後にはどうなっているのか理解していないだろう。100年に1度の災害に対応できる、と自負する防災施設を完全に把握するのは、やはり地域に長年住み続けて、防災を生業とする人間だろう。歴史が50年そこそこの年金問題でも、資料をすぐに提示できないでいた厚生労働省社保庁をみれば、より明白に映るのではないか。

ある地方零細業者は、談合防止、品質確保のために導入された総合評価落札方式をばっさり切り捨てる。「総合評価落札方式の導入?そんなの合法化された官製談合でしかない」という。この言葉、真摯に受け止めて欲しい。

こんなこと、国民の大半はすでに分かっていると思う。しかし、それを表出できない「今」が問題で、日本は民主主義国家でありながらも、共産主義かと錯覚してしまう日本が嘆かわしい。


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